ここはr30起点。背中には R24 が通っている。で、起点から早々に枝線が分岐する。写真右隅に私の原チャリがおいてあるが、あの方向に支線がある。が…。取材当日は道路工事のため通行止。
これがその迂回路が戻ってきて本線に合流する地点。舗装を剥がして工事しているので歩行者でも通行不能。まあ、わざわざ行かなくても住宅の間を抜けていることぐらいは分かる。
山麓へ向かって駆け上がるS字コーナーの途中に三叉路がある。直進がr30本線だが、右手に分岐するのもr30である。
交通量の少ない直線路を行くとつきあたりに高鴨神社がある。公式Webページの由来の解説によれば、この地に拠っていた豪族鴨氏が祭った社であるとか。本殿は国指定の重文でもちろん式内社である。こういう由緒の古い神社が脇道になにげなく建つのは奈良の特徴である。|
上記リンクの公式ページを読むと、大和朝廷を成立させた政権がこの周辺の統一王座決定戦でチャンピオン…という言い方がくだけすぎなら「畿内平定」後、鴨氏の政治的な勢力は衰えたとある。ただそれは、たとえば戦国末期大坂の役の後の豊臣氏のような、根絶やしにするような征伐ではなく、多少の戦闘はあったかも知れないが降伏して服従を誓った程度ですんだのであろう。だからこそ全国に鴨・加茂・賀茂と名のつくところが点在しているのだ。そもそも「家」とか「血筋」とかいうのが持て囃されるのは近世の封建制か、もう少し遡るなら平安期の貴族階級である。飛鳥期以前のこの時代では「鴨氏」といってもそのあたりに住む人の総称ぐらいの意味だったに違いない。 考えてみれば、豪族由来の地名というのは奈良には多い。鴨氏は御所市の大字くらいにしか名が残っていないが、知っている限りでも巨勢(今の御所市付近?)・葛城・物部(今の橿原市付近)・初瀬(あるいは長谷。今の桜井市付近)・斑鳩・平群・狛(あるいは高麗・駒。今の精華・木津町や京田辺市)など数多い(もちろん未だに確証のないものも多いが)。 面白いのは、上で挙げた地名はだいたい川が近くにある。縄文後期から弥生時代にかけて始まった稲作が当時どれだけの中心産業だったかの傍証とも言えよう。 |
それはともかく、神社前にこんな看板が。ここも一応御所香芝線なのだが…。
神社と池を避けて進むとヘアピンになる。その先には高い橋で渡る本線の姿。こちらもセンターラインくらいはあるが格差を感じる。
そんな道だが、御所市のコミュニティバスはむしろ集落をこまめに立ち寄っている。
集落のうねうね道をいくと最後はストレートになって本線に合流。
本線の葛城寄りから分岐を見た様子。いかにも旧道然と分岐していくが、本線はいわゆるバイパスとはちょっと違う気がする。
さっきの地点から500mほど。アップダウンがあるので見とおすことはできないが、皮肉にもヘキサの手前からまた支線が分岐する。
果樹園を抜けると眼下に御所市街が広がっている。
右手に住吉神社が現れるとその前で左折する。
このあたり(さっきの高鴨神社のあたりもそうだろうが)葛城古道に沿っているということで、近畿自然歩道の案内標がある。が、その隣にはまだ新しそうな石柱が倒れたままになっている。整備しなおしにしてももうちょっと何とかならんものか。
住吉神社から700mほどだろうか。小さな川を渡って下りにかかるところを道なり右へ。ちょっと戸惑うかも知れない。
同じ場所から東を見るとR24が通っている場所は葛城川の谷になっていて、向かいに御所工業団地。あの向こう側にr215が通じている。
突然道幅が狭くなって井戸地区の集落を下って行く。
井戸会館という公民館のような建物を過ぎると左折して自動販売機の並んでいる方向へ進む。当然のように標識などはない。
再び上りになり、上りきったところで本線にぶつかる。
本線には井戸地区への入り口であることが控えめに表示されていた。